味噌や醤油、日本酒にヨーグルトやチーズ――世界各地の伝統食に共通するのが「発酵食品」です。微生物の働きが味覚や保存性にどのような影響を与え、現代の健康科学とどう結びついているのか。一万年以上にわたる人類と微生物の共生の歴史を、科学的視点から解き明かします。
このシリーズは、歴史・しくみ・フィールドの三層構造をできるだけ意識して構成しています。「なぜそうなったか」「どんな仕組みか」「フィールドで何が見えるか」——この3つの視点をそろえることで、歴史や社会に興味がある人も自然に引き込まれ、断片的な知識ではなく「線や面」としてつながった知識が、はじめて判断の源泉になると考えています。
発酵の基礎と微生物の役割
発酵とは、微生物が有機物を分解してエネルギーを得る代謝プロセスであり、人間にとって有用な物質(うま味、アルコール、酸など)が生み出される現象です。
- 乳酸菌: 糖を乳酸に変えて環境を酸性にし、有害菌を抑制(ヨーグルト、キムチ)。
- 酵母: 糖をアルコールと二酸化炭素に変える(パン、ビール、ワイン、日本酒)。
- 麹菌: 強力な酵素でデンプンやタンパク質を分解。黒麹菌はクエン酸で雑菌を抑制(味噌、醤油、焼酎)。
- 酢酸菌: アルコールを酢酸に変える(お酢)。
- 納豆菌: タンパク質を分解し、骨に大切なビタミンK2を合成(納豆)。
発酵と腐敗の境界線
どちらも「微生物による有機物の分解」ですが、人間に有益なら「発酵」、有害(悪臭や毒素)なら「腐敗」と呼ばれます。腐敗細菌がタンパク質を分解すると、アンモニアや硫化水素などの不快臭が発生します。人間の味覚・嗅覚は、進化の過程でこれらを敏感に嗅ぎ分けられるよう洗練されてきました。
もし世界から「発酵」が消えたら?
発酵技術がない世界を想像すると、その莫大な価値が分かります。歴史的に発酵食品は重要な交易品でした。現代でも酒類市場(1兆5000億ドル)やチーズ市場(1000億ドル)など巨大な産業を支えており、これらが消滅すれば世界経済は壊滅的な打撃を受けます。
醤油、味噌、酢、みりん、魚醤などが存在しないため、調味料は塩・砂糖・生のハーブのみになります。発酵が生み出す「うま味(グルタミン酸など)」や複雑な芳香が消え、料理の深みや食事の楽しみが失われます。牛乳は数日で腐り、穀物もカビや虫で数ヶ月で全滅します。肉や魚も塩漬けや燻製しかできず、長期保存が困難に。発酵で生まれるビタミンB12やK2の供給源が激減し、貧血や骨粗鬆症が増加します。また、腸内環境を整えるプロバイオティクス(善玉菌)が摂取できないため、多くの人が消化不良や免疫力低下に悩まされます。結果として、収穫期以外は深刻な飢饉に陥り、人口増加や都市化は不可能となったでしょう。
発酵の歴史と人類文明
発酵技術の起源は、おそらく偶然の産物でした。紀元前8000年頃、新石器時代の人々が野生のブドウや穀物を保管していた容器の中で、自然発酵が起こったと考えられています。
最古の発酵飲料の証拠は、中国河南省の賈湖遺跡で発見された紀元前7000年頃の土器から見つかっており、米、蜂蜜、果実を混合して発酵させた飲料が作られていたことが判明しました。
ワイン醸造は、紀元前6000年頃のジョージア(南コーカサス地方)で始まったとされています。この地域のクヴェヴリ(大型の陶器製発酵容器)は、現在もユネスコ無形文化遺産に登録されています。
メソポタミア文明とビールの誕生
紀元前4000年頃、メソポタミア文明では既にビールが醸造されていました。シュメール人の粘土板文書「ニンカシ賛歌」(紀元前1800年頃)には、ビールの醸造方法が讃美歌形式で記されています。メソポタミアでは、ビールは労働者への賃金の一部として支給され、神殿での宗教儀式にも用いられました。
エジプト文明とパンの発酵
古代エジプトでは、紀元前3000年頃にパンの発酵技術が確立されました。エジプト人は、ビールの製造過程で生じた酵母を利用して、ふっくらとしたパンを焼く技術を開発しました。エジプトのパンとビールは、労働者の主食であり、ピラミッド建設に従事した労働者にも配給されていました。
東アジアの麹文化の起源
中国では、紀元前2000年頃から麹を用いた発酵技術が発達しました。麹菌(Aspergillus属)は、強力なアミラーゼ(デンプン分解酵素)とプロテアーゼ(タンパク質分解酵素)を生産し、米や大豆を発酵させることで、醤油、味噌、酒の原型となる「醤」や「醴」が作られました。
日本への伝来は飛鳥時代(6~7世紀)とされ、奈良時代には既に醤や酒の製造が行われていました。「大宝律令」(701年)には、酒造を管理する「造酒司」の存在が記されています。
チーズの発祥と遊牧文化
チーズの起源は、紀元前8000年頃の羊の家畜化に遡ります。伝説によれば、アラビアの商人が羊の胃袋で作った水筒に牛乳を入れて旅をしたところ、胃袋に残っていたレンネット(凝乳酵素)と揺れによって牛乳が凝固し、チーズが偶然生まれたとされています。
紀元前3000年頃のメソポタミアの壁画には、チーズ製造の様子が描かれています。地中海沿岸、中東、中央アジアの遊牧民にとって、チーズは貴重なタンパク質源であり、持ち運びやすい保存食でした。
発酵技術の発展が人類史に及ぼした影響
冷蔵技術がなかった時代、発酵は最も効果的な食品保存技術でした。乳酸発酵により、pHが4.0以下に下がると、大部分の病原菌や腐敗菌は増殖できません。これにより、野菜や乳製品を数ヶ月から数年保存できるようになりました。発酵技術により、収穫期に得られた食料を通年で利用できるようになり、食料供給の安定化が実現しました。これは定住生活の確立、人口増加、文明の発展に直接寄与しました。
発酵食品は、保存性と高付加価値により、重要な貿易品となりました。古代ギリシャ・ローマ時代から、ワインは地中海貿易の主要商品でした。江戸時代、日本の醤油はオランダ東インド会社を通じてヨーロッパに輸出され、「Soy sauce」として知られるようになりました。
発酵食品は、しばしば社会階層を反映してきました。フレッシュチーズは庶民の食べ物でしたが、長期熟成チーズは貴族や富裕層の贅沢品でした。パルミジャーノ・レッジャーノは「チーズの王様」と呼ばれ、中世イタリアでは銀行の担保として認められるほど価値が高いものでした。
多くの宗教において、発酵食品は儀式や教義と深く結びついています。キリスト教ではワインがキリストの血の象徴として聖餐式で用いられます。修道院は中世ヨーロッパにおけるワイン・ビール・チーズ生産の中心でした。
日本の禅寺では、味噌や醤油の醸造が行われ、「一汁一菜」の精進料理を支えました。
世界の発酵食品
乳製品の発酵(中央アジアからヨーロッパへ)
ヨーグルトは紀元前5000年頃の中央アジアを起源とし、現代ではブルガリア菌とサーモフィラス菌の共生発酵によって作られています。また、カフカス地方伝統のケフィアは、乳酸菌・酢酸菌・酵母が共生する「ケフィア粒」という独特の微生物複合体から生まれます。
この乳製品発酵の最高峰がチーズです。世界に1000種類以上あるチーズは、微生物の違いで多様な風味を見せます。乳酸菌だけで軽く発酵させるミルキーなモッツァレラ、表面の白カビで外側からクリーミーに熟成させるカマンベール、内部の青カビが刺激的な風味を生むゴルゴンゾーラ、表面を酒などで洗いながら細菌で熟成させるウォッシュタイプ、そして、長期熟成によってタンパク質を強いうま味(アミノ酸)へと変えるパルミジャーノなどのハードタイプがあり、まさに微生物が織りなす風味の宇宙といえます。
アルコール発酵(歴史と技術の結晶)
ワインは、ブドウ果汁の糖分を酒酵母で発酵させるもので、その歴史は8000年に及びます。ワインの世界には、土地の気候や土壌、微生物叢が味を決める「テロワール」という概念があります。また、醸造過程で乳酸菌がリンゴ酸をまろやかな乳酸に変える「マロラクティック発酵」を行うことで、独特のバターのような芳香が加わります。
一方のビールは、麦汁にホップで風味をつけ、酵母で発酵させます。常温で発酵させフルーティーに仕上げるイギリスやベルギー伝統の「エール」と、低温で発酵させすっきりしたキレを生むドイツ伝統の「ラガー」が二大潮流です。ラガーは19世紀の冷蔵技術の発展によって世界中へ普及しました。このほか、野生酵母や乳酸菌で自然発酵させる爽やかな「サワービール」も存在します。
大豆の発酵(東アジアの食文化の基盤)
東アジアの食を支える大豆発酵の代表が醤油と味噌です。醤油は、大豆と小麦に麹菌を合わせた後、食塩水の中で乳酸菌や酵母とともに数ヶ月から数年かけて「諸味発酵」をさせます。この長期のプロセスによって、300種類以上の複雑な香気成分が生まれます。味噌は、大豆に米や麦の麹と塩を混ぜ、麹菌や乳酸菌で発酵させたもので、タンパク質が分解されてできる遊離グルタミン酸が深いコクを生み出します。
また、日本の伝統食である納豆は、稲わらに自生する納豆菌(枯草菌の一種)を煮大豆に作用させて作られます。納豆菌がポリグルタミン酸などを生成することで特有の粘り気が生まれ、同時に骨の健康に欠かせないビタミンK2も豊富に合成されます。
漬物と魚の発酵(地域が育んだ保存の知恵)
野菜の保存から生まれた漬物は、植物性乳酸発酵の傑作です。日本の「ぬか床」は乳酸菌や酵母、酪酸菌が共生する高度な微生物生態系であり、世代を超えて受け継がれることもあります。韓国のキムチは、発酵の段階ごとに主役となる乳酸菌が移り変わり、風味が変化していくのが特徴です。ドイツの伝統的なキャベツの塩漬け「ザワークラウト」は、発酵によりビタミンCが豊富に保たれるため、大航海時代には船乗りの壊血病予防食として重宝されました。
さらに、気候の暑い地域や沿岸部では魚の発酵技術も発達しました。魚醤(タイのナンプラー、ベトナムのニョクマム、秋田のしょっつるなど)は、魚と塩を数ヶ月以上漬け込むことで、魚自身の「自己消化酵素」と微生物がタンパク質を徹底的に分解し、アミノ酸が凝縮された濃厚なうま味調味料へと変化したものです。
日本の酒造り――並行複発酵の奇跡
日本酒の最大の特徴は「並行複発酵(へいこうふくはっこう)」という、世界でも類を見ない高度な醸造技術にあります。ワインはブドウ果汁に含まれる糖を直接発酵させる「単行発酵」ですが、日本酒の原料である米には糖分がほとんど含まれません。そのため日本酒では、麹菌(こうじきん)によって米のデンプンを糖に変える「糖化」と、酵母によってその糖をアルコールに変える「アルコール発酵」を、同じタンク内で同時に進行させます。
この並行複発酵は、緻密な工程を経て行われます。まず蒸した米に麹菌を繁殖させて「米麹」を作り、これに水と酵母、さらに蒸し米を混ぜ合わせて、発酵のスターターとなる「酒母(しゅぼ/もと)」を育てます。この酒母に対して、米麹、蒸し米、水を3回に分けて投入する「三段仕込み」を行うことで、タンク内の環境をコントロールしながら、糖化とアルコール発酵をバランスよく同時進行させます。この絶妙な糖とアルコールのコントロールにより、ワインやビールを遥かに凌ぐ、世界最高クラスのアルコール度数(15〜20%)を原酒の段階で達成できるのです。
酒母造りの技法――速醸・生酛・山廃
日本酒の個性を決定づける重要な要素の一つが、発酵の基盤となる「酒母」の造り方です。
現代の主流である速醸酒母(そくじょうしゅぼ)は、人工的に醸造用の乳酸を添加する方法です。これにより雑菌の繁殖を素早く防ぎ、安定した発酵を短期間で実現できるため、クリーンで華やかな香りの現代的なお酒造りに適しています。
一方、伝統的な製法である生酛(きもと)は、人工的な乳酸を使わず、自然界の乳酸菌をじっくりと取り込んで蔵付き酵母とともに育てる手法です。これには「山卸し(やまおろし)」という、極寒の深夜に米を何度もすり潰す過酷な重労働を伴いますが、それゆえに複雑で力強い骨太な味わいが生まれます。この山卸しの重労働を省略し、温度管理を工夫することで野生の乳酸菌を育てる簡略化された手法が山廃酛(やまはいもと)です。生酛に近い奥深い複雑味を持ちながら、やや軽快な印象に仕上がるのが特徴です。
酒造好適米の品種学
酒造りに適した米は「酒造好適米(しゅぞうこうてきまい)」と呼ばれ、私たちが普段食べている食用米とは大きく異なる特性を持っています。 酒米は精米(米を削る作業)の際にも割れにくい「大粒」であり、米粒の中心部には「心白(しんぱく)」と呼ばれる白く不透明な部分があります。心白はデンプン質の構造が粗いため、麹菌の菌糸が内部に入り込みやすい(軟質)というメリットがあります。さらに、お酒の雑味や吸水性の阻害原因となるタンパク質や脂質が食用米よりも少ないことも特徴です。
代表的な品種として、酒米の王様と称される兵庫県産の山田錦があり、心白が非常に大きく、限界まで精米しても割れにくい性質を持っています。これに対し、新潟県を代表する五百万石は山田錦よりも小粒で硬質であり、すっきりとした淡麗辛口の酒質に向いています。また、長野県で開発された美山錦は寒さに強い耐冷性品種であり、寒冷な東北地方などでも広く栽培され、すっきりとした味わいを生み出しています。
吟醸香の科学と、水・気候が育む地域性
日本酒特有のフルーティーな「吟醸香(ぎんじょうか)」は、酵母が厳しい環境下で生成するカプロン酸エチル(リンゴのような香り)や、酢酸イソアミル(バナナのような香り)といったエステル類という香気成分によるものです。米を極限まで磨き、米の栄養(タンパク質など)を制限した状態で、あえて10℃前後の低温で長期間じっくりと発酵(低温長期発酵)させることで、酵母がこれらの豊かな香りを最大限に引き出します。
この吟醸香や酒質には、その土地の「気候」と「水」が決定的な影響を与えます。東北や北陸などの寒冷地では、冬の厳しい寒さを利用して低温でゆっくりと発酵させるため、華やかな吟醸香が生まれやすくなります。一方、高温多湿で日本酒の品質管理が難しかった九州や中四国などの温暖地では、日本酒よりも蒸留酒である「焼酎文化」が独自の発達を遂げました。
また、日本酒の約80%を占める「水」の水質も味わいを左右します。関西や広島などに多い「軟水」で醸すと、まろやかでふくよかな優しいお酒になります。対して、兵庫県・灘の「硬水」で醸すと、キレが良く力強い男酒に仕上がります。特に灘の「宮水(みやみず)」は、硬水でありながら適度なミネラルバランスを持ち、酵母の活動を劇的に活性化させる奇跡の水として知られています。
杜氏制度と近代科学による技術継承
日本酒の味わいの多様性は、伝統的な職人集団である「杜氏(とうじ)制度」によって守られ、発展してきました。地域ごとに異なる流派が存在し、技術の体系化と理論化を重視して全国の酒蔵へ広く技術を普及させた兵庫県の丹波杜氏、寒冷地特有の低温長期発酵を得意として美しい吟醸酒造りを牽引した岩手県の南部杜氏、そして、豪雪地帯の農閑期の出稼ぎとして発展し、新潟のすっきりとした淡麗辛口の酒質を支えた越後杜氏などが代表的です。
江戸時代にはすでに、これらの技術は経験則として高度に体系化され、「酒造口伝」などの技術書が編纂されていました。高度経済成長期以降は、農村部の過疎化や通年雇用の普及により、季節労働としての杜氏制度は徐々に衰退していきます。現在では、年間を通じて酒造りを行う「社員杜氏」や「蔵元杜氏」が主流となり、少人数のチームによる近代的な酒造りへとスタイルが変化しました。
明治時代には近代化政策の一環として「醸造試験場」が設立され、それまでの職人の勘と経験が、微生物学や化学の視点から科学的に解明されました。現在、多くの蔵元や杜氏が東京農業大学の醸造科学科(明治24年創設の伝統ある醸造教育機関)で学んでいるのも、こうした歴史的背景があるからです。
伝統酒の進化と発酵工学のイノベーション
1. 焼酎の技術――蒸留という革新と麹の科学
日本の伝統的な蒸留酒である焼酎は、その蒸留方法によって大きく二つの種類に大別され、それぞれ異なる魅力を持っています。
ひとつは、一度だけ蒸留を行う本格焼酎(単式蒸留)です。アルコール度数は45度以下に制限されていますが、あえて一度しか蒸留しないことで、芋、麦、米、黒糖、そば、栗といった多彩な原料由来の豊かな香りと風味がそのままお酒に残ります。もうひとつは、連続式焼酎(甲類)です。連続式蒸留機を用いて何度も蒸留を繰り返すことで、ピュアなアルコールに近づけていきます。こちらは無味無臭でクセがないため、サワーやチューハイのベースとして広く使われています。
また、焼酎造りにおける味わいや品質のコントロールには「麹(こうじ)」の使い分けが決定的な役割を果たしています。
- 黒麹: 沖縄の泡盛で伝統的に使われてきた麹です。温暖な気候でも雑菌の繁殖を防ぐ「クエン酸」を大量に生成する特徴があり、力強く濃厚な味わいに仕上がります。
- 白麹: 黒麹の突然変異株から生まれた麹です。黒麹特有の「作業中に衣服や蔵が黒く汚れる」という弱点がなく扱いやすいため、現在の芋焼酎などで広く普及しており、やや穏やかで洗練された風味を生み出します。
- 黄麹: 本来は日本酒用である麹を焼酎に応用したものです。クエン酸をあまり作らないため温度管理が繊細になりますが、華やかで軽快なフルーティー香を引き出すことができます。
2. ワインの品種学――日本固有品種の挑戦
ワイン醸造の歴史においても、日本の固有品種が国際的な舞台で大きな挑戦を続けています。
その代表格が甲州です。日本で1000年以上前から栽培されてきた東洋系のブドウ品種で、2010年にはOIV(国際ブドウ・ワイン機構)に日本の品種として初めて登録され、国際的な認知を獲得しました。果皮が厚く病気に強いのが特徴で、和食の繊細な味わいに寄り添う、控えめな酸味とクリーンな柑橘系の香りが世界で高く評価されています。
もうひとつの雄がマスカット・ベーリーAです。「日本のワインぶどうの父」と呼ばれる川上善兵衛が1927年に新潟県で開発した交配品種で、2013年にOIVに登録されました。イチゴやキャンディを思わせる甘く華やかな香りと、渋みが少なく柔らかなタンニンの口当たりが特徴的な赤ワインを生み出します。さらに、日本原産の野生種であるヤマブドウ(山葡萄)も、北海道や東北地方などの寒冷地を中心に栽培されています。酸味が非常に強く、ポリフェノール由来の濃い色調を持ち、野性的で力強い赤ワインの原料として個性を放っています。
3. 20世紀における発酵工学の幕開け
20世紀に入ると、それまでの伝統的な食品や酒造りの枠を超え、発酵技術は「発酵工学(バイオテクノロジー)」として工業化され、世界の医療や食に革命を起こしました。
抗生物質の大量生産
1928年、アレクサンダー・フレミングが青カビの培養液から抗菌作用を持つペニシリンを発見し、抗生物質時代の幕を開けました。これが第二次世界大戦中、大型タンクの中で微生物を効率よく増殖させる「深部培養法」という発酵工学技術と結びついたことで工業的な大量生産が可能になり、戦場で無数の命を救うこととなりました。
アミノ酸発酵とうま味の工業化
1957年、日本の味の素社が、微生物(グルタミン酸生産菌)を用いたグルタミン酸の発酵生産法を世界に先駆けて開発しました。それまでは小麦や大豆のタンパク質を分解して抽出していた「うま味成分」を、微生物の代謝パワーを借りて安価に大量生産できるようになり、世界の食文化や食品工業のあり方を一変させました。
有機酸発酵の応用
クエン酸や乳酸、酢酸といった各種の有機酸も、黒麹菌や乳酸菌などを活用した大型発酵槽での工業生産が確立されました。これらは食品に爽やかな酸味や保存性を与える添加物としてだけでなく、現代の医薬品、化粧品、さらには生分解性プラスチックの原料など、化学工業を支えるサステナブルな基盤技術として広く世界中で利用されています。
現代社会における発酵
腸内細菌と健康へのアプローチ
人間の腸内には100兆個以上の微生物が生息しており、消化の補助、ビタミン(B12やK)の合成、免疫系の調節といった重要な役割を果たしています。この腸内環境を良好に保つアプローチとして、現代では発酵食品が大きな注目を集めています。
その代表が、ヨーグルト、キムチ、味噌、納豆などに含まれる生きた有用微生物(乳酸菌やビフィズス菌など)を摂取するプロバイオティクスです。これらを定期的に取り入れることで腸内環境の改善が期待できます。さらに、腸内細菌の「餌」となる食物繊維やオリゴ糖などのプレバイオティクスを発酵食品と併せて摂取すると、より高い相乗効果を発揮します。近年の研究では、腸内細菌叢(フローラ)の乱れが、単なる胃腸の不調だけでなく、肥満や炎症性腸疾患、さらにはうつ病やアレルギーなど、全身の心身の健康と深く関連していることが明らかになっています。
持続可能な食料生産への貢献
現代の発酵技術は、環境負荷の低いサステナブルな食料生産の鍵としても期待されています。
その筆頭が、特定の化合物を微生物にピンポイントで作らせる精密発酵です。例えば、牛乳に含まれる乳タンパク質のカゼインや、卵白のアルブミンといった動物性タンパク質を、遺伝子組み換え微生物などの発酵によって工場で生産する技術が開発されています。これにより、従来の家畜飼育に伴う莫大な温室効果ガスの排出や水・土地の消費を劇的に削減することが可能になります。また、大豆やエンドウ豆などの植物性タンパク質を発酵技術で加工し、肉のような風味とジューシーな食感を持たせた代替肉(植物肉)の開発も進んでおり、発酵技術はこれからの循環型社会を支える柱となっています。
バイオテクノロジー産業の進化
現代の最先端バイオテクノロジー産業は、発酵技術の応用によって成り立っています。
特に医薬品生産の分野では、糖尿病治療に不可欠なインスリン、成長ホルモン、各種ワクチン、そして高度な抗体医薬品などが、遺伝子組み換えを施した微生物の発酵によって量産されています。かつての動物組織から抽出していた時代に比べ、未知のウイルス感染リスクなどを排除した安全性の高い医薬品を、安定して大量に供給できるようになりました。
また、日々の暮らしを支える酵素産業でも発酵は不可欠です。衣類の汚れを強力に落とす洗剤用酵素、食品加工をスムーズにする酵素、植物の繊維からエコな燃料を作るバイオ燃料用酵素などが、すべて微生物発酵によって作られています。こうした背景から、プロバイオティクスやプレバイオティクス、さらに有用菌が作り出した代謝産物そのものを活用する「ポストバイオティクス」を組み込んだ機能性食品市場は、世界規模で急成長を続けています。
伝統発酵食品の科学的再評価
近年の「メタゲノム解析(環境中の微生物のDNAを網羅的に調べる技術)」の進歩により、世界各地で古くから受け継がれてきた伝統発酵食品の全体像が、科学的に証明され始めています。
たとえば日本の味噌を解析すると、主役である麹菌だけでなく、実は目に見えない数十種類もの乳酸菌、酵母、酪酸菌などが共生していることが検出されました。これらの多様な微生物が互いに複雑に影響を及ぼし合い、バトンを繋ぐように発酵を進めることで、あの奥深い独特の風味と優れた健康効果が生み出されていることが分かってきたのです。
かつて先人たちが経験則や勘で守り続けてきた伝統的な発酵食品は、単に微生物を便利に使った食品という枠を超え、長い歴史の中で洗練されてきた極めて精緻な「微生物生態系のデザイン」の産物だったと言えます。
まとめ
人類は、目に見えない微生物を巧みに利用し、食品の保存、栄養価の向上、風味の改善を実現してきました。
日本は世界でも珍しい「多重発酵文化圏」です。米を原料とした日本酒では麹菌によるデンプンの糖化と酵母によるアルコール発酵が同時進行する「並行複発酵」が行われます。
現代の微生物学と発酵技術は、伝統的な発酵食品の科学的理解を深めるとともに、新しい食品、医薬品、環境技術の開発に貢献しています。発酵は、持続可能な食料生産、健康増進、環境保全において、ますます重要な役割を果たしていくでしょう。

