バイオテクノロジーの進歩の歴史

科学史・産業史

4種の化学物質の組み合わせによる暗号はあらゆる生物の共通言語です。この事実は、20世紀半ばに明かされたDNAの二重らせん構造から始まりました。この「設計図」の解読を皮切りに、人類は細菌を借りてタンパク質を自在に生産し、さらには試験管の中で「進化」そのものを加速させる技術を手に入れました。現在、ゲノム編集という道具を手にした私たちは、設計図を「読む」段階から、狙い通りに「書き換える」段階へと足を踏み入れています。生命の根幹を操作し、新たな可能性を紐解きます。

シリーズについて

本サイトのメインテーマは「暮らしの背後にある仕組みを読み解く」こと。中学・高校理科の知識をベースに、特定の専門に偏らず、物事の骨子を見抜く力を養います。記事は「歴史的背景」「科学的原理」「フィールド(実社会での応用)」の3層構造で構成しています。「なぜそうなったか」「どんな仕組みか」「現実で何が見えるか」。この3視点を揃えることで、断片的な知識を「線や面」へとつなげ、社会を生き抜くための判断の源泉を提供します。

09生命科学の基礎:細胞・DNA・進化

バイオテクノロジーは現在、非常に幅広い分野を内包していますが、その核心は生物の育種と改変にあります。そのため、古くからの野菜の品種改良や家畜の育種の延長線上にあるといえます。これらは一般的に農業や畜産の領域に位置づけられます。。人類は何千年もの間、より大きな実をつける植物や、より病気に強い品種を求めて交配を繰り返してきました。二十世紀に入ると、X線や化学物質を種子に照射してDNAにランダムな変異を大量に起こし、偶然に生まれた優れた性質を持つ個体だけを選び出す「突然変異育種」が登場します。FAOとIAEAが共同で推進し1950〜60年代以降、世界では現在までに3000種以上の品種がこの方法で登録されており、私たちが普段口にしている食品の中にも突然変異育種によって生まれたものが数多く含まれています。しかし問題は、変異がどこに起きるかを制御できないため、望む性質を得るまでに膨大な数の試行錯誤が必要だったことです

やがて、生物の構成単位が細胞や微生物であると解明されると、それらを自然界から単離・精製して活用する技術が発展しました。酒や酢、味噌などの発酵食品の製造はその典型例です。近年では、異種生物の細胞に蛋白質などを生産することも行われています。

さらに、生物の改良技術は高度化しました。古くは目的に近い個体を選抜する(選別育種)ことが中心でしたが、徐々に放射線や化学物質を照射して遺伝子を人工的に変異させる「突然変異育種」が行われるようになりました。近年では、特定の遺伝子を導入したり除去したりする遺伝子組み換え技術やゲノム編集技術へと発展しています。

設計図

1953年、ワトソンとクリックは、この設計図が長鎖の二重らせん構造を持つことを突き止めました。この発見の陰には、X線結晶解析によるデータを提供したロザリンド・フランクリンの貢献もありました。二重らせんという形のおかげで設計図を複製し、子孫へ正確に情報を手渡すことができます。

地球上には数え切れないほどの生物が存在しますが、その生命の設計図はすべて、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)という4種類の化学物質が並ぶ文字列で構成されています。この遺伝暗号を解く鍵となったのが「3文字の組み合わせ」です。設計図の文字が3つ並ぶごとに1つのアミノ酸が指定されるというルールが解明されました。この3文字の並びをコドンと呼びますが、4種類の文字を3つ並べると64通りの組み合わせが可能です。一方で、タンパク質を構成するアミノ酸は20種類しかないため、複数の異なるコドンが同じアミノ酸を指定するという「冗長性(ゆらぎ)」が備わっています。この冗長性は、設計図の一部が突然変異しても、指定されるアミノ酸が変わらない場合があることを意味しており、生命が小さなエラーに対して頑丈である理由の一つです。驚くべきことに、この仕組みはすべての生物で共通しています。この共通言語の発見が、生命科学を「読む」段階はもとより、DNAを書き換えて活用する「応用」の段階へと押し上げたのです。

遺伝子工学

最初の大きなブレイクスルーは、微生物に他の生物のタンパク質を作らせる「遺伝子組換え技術」の確立です。

1973年、ハーバート・ボイヤーとスタンリー・コーエンらは、大腸菌などの細菌が持つ特殊なDNAに着目しました。細菌には、細胞の生存に必須の遺伝情報を持つ「ゲノム」とは別に、「プラスミド」と呼ばれる小さな環状のDNAが存在します。彼らは「制限酵素」という分子のハサミでこのプラスミドを切り開き、そこにインスリンなどの目的の遺伝子を挟み込んで再び細菌の体内に戻す技術を開発しました。これにより、大腸菌は本来持っていないはずのタンパク質を大量に作り出し始めたのです。

大腸菌はこの技術の代表例ですが、現在では酵母や放線菌といった微生物、さらには動物細胞など、それぞれの種に応じた遺伝子操作技術が考案されています。

さらに時代が進むと、人類は自然の蛋白質の設計図を「借りて異種生物に導入する」だけでなく、生物の進化を研究室で再現する「進化分子工学」という分野を切り拓きました。これは、蛋白質の設計図をランダムに変異させた無数のバリエーションを作り出し、その中から目的に最も適した性質を持つものだけを選別し続けるのです。自然界で何百万年もかけて行う「自然淘汰」のプロセスを、試験管の中で猛スピードで繰り返すことで、人類は望みの機能を持つ蛋白質を効率よく探索・創出できるようになったのです。

培養工学

しかし、研究室の試験管やフラスコの中で「目的の蛋白質ができた」とか「目的の蛋白質を産生する微生物ができた」いう成功は、まだ道半ばに過ぎません。それを社会に届けるためには、産業スケールへの「大量培養」という、もう一つの大きな工業の壁を越える必要がありました。

それは、細胞や微生物たちを数万リットルという巨大な発酵タンクの中で一斉に育てる技術です。タンクの底から上まで均一に酸素と栄養分を行き渡らせる精密な撹拌技術、そして雑菌の混入を徹底的に防ぐ無菌制御システム。長年の醸造や発酵で培われてきた技術との融合があって初めて、インスリンなどの医薬品が現実的なコストで私たちの手元に届くようになったのです。

そして、この大量培養のエンジニアリングと進化分子工学の技術は、人間の命を救う最先端の医療において、さらに高度な結実を見せています。その代表格が、特定の病原体やがん細胞をピンポイントで攻撃する「抗体医療」です。実は、私たちの体にある抗体のような巨大で複雑な蛋白質は、大腸菌では正しく産生することが難しいのです。そのため大腸菌の代わりに、より人間に近い複雑な蛋白質の修飾ができる「チャイニーズハムスターの卵巣細胞(CHO細胞)」が主役として働いています。進化分子工学の選別によって選び抜かれた、がん細胞と高い結合能を持つ抗体の設計図。それをハムスター細胞のゲノムへと組み込み、細胞が分裂しても常にその医薬品を作り続けられる安定した「細胞株」を構築します。これを巨大なタンクの中で緻密に管理しながら大量培養していくのです。

ゲノム編集

これまで見てきた技術は、生物の設計図を「読み」「別の場所へ挟み込む」というものでした。しかし人類は今、設計図そのものをピンポイントで狙って自在に書き換える、まったく新しい段階へと足を踏み入れています。

その技術的限界を根本から覆したのが、2012年前後にブレイクスルーを迎えた「CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)」と呼ばれるゲノム編集技術です。これは、膨大なDNAの文字列の中から狙った一箇所だけを正確に特定し、文字を削除したり別の文字に書き換えたりすることを可能にしました。以前は数年がかりの大規模なプロジェクトであった遺伝子操作が、今や数週間で、しかも圧倒的な低コストで実現できるようになったのです。

この技術によって、これまでは不可能だった品種改良や医療応用の扉が次々と開かれています。例えば、アレルギーの原因となるタンパク質の遺伝子を取り除いた小麦、筋肉の成長を抑制する遺伝子を欠損させて驚異的な筋肉量を持つマダイ、そしてヒトへの異種移植における拒絶反応の原因遺伝子を不活化したブタなどです。自然界では気の遠くなるような長い進化の時間を必要とする変化を、人類は人為的かつ短期間で引き起こせるようになったのです。

編集後記

私自身も、あるベンチャー企業で研究員としてこの分野に関わり、いくつかのフィージビリティスタディを担当しました。進化分子工学という、自然界が何億年もかけて行ってきた進化を、人間が実験室の中で制御し、応用していく。その技術によって、抗体医薬をはじめとする多くの医療技術が発展しています。基礎研究の成果を事業や医療へ届けるまでには、いわゆる「死の谷」と呼ばれる大きな壁があります。その隔たりを、研究者として実感する経験となりました。それでも、進化という自然の仕組みを理解し、それを人間の手で応用していくこの分野には、今でも強く惹かれています。

おわりに

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本記事を通じて、暮らしの背後にある仕組みを読み解くヒントは得られましたでしょうか。もし「このテーマをもっと深く知りたい」と感じていただけましたら、ぜひ関連の解説記事もあわせてご覧ください。

本サイトではトピックをできるだけ「歴史・科学・フィールド」の3層構造で体系化しています(教育とキャリアを除く)。一つの事象を多角的に捉えることで、断片的な知識を「線や面」へとつなげることができます。多彩なテーマを用意していますので、ぜひサイト内の記事一覧から、あなたの知的好奇心を刺激するトピックを覗いてみてください。

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この記事を書いた人
イカノフ

博士・電気主任技術者・エネルギー管理士・環境計量士、技術士補(生物)ほか)
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