空気が汚れる。水が濁る。便利な素材が、後で問題になる。それらは「人間が悪い」からではなく、物質が環境中でどう振る舞うかを十分に理解せず使ってきた結果です。化学反応と物質循環の問題なのです。
日本は、深刻な公害を経験し、科学的知見に基づく環境基準を定め、行政による監視体制を整えることで、環境を改善してきました。環境化学とは、物質の性質を理解するだけでなく、測定し、基準を定め、管理するという社会システムと一体になって初めて機能する学問です。
公害から生まれた環境基準―化学測定が社会を守る仕組み
日本の公害の歴史
1950年代から60年代にかけて、日本は高度経済成長の裏で深刻な公害に苦しみました。熊本県水俣市では、化学工場から排出されたメチル水銀が魚介類に蓄積し、それを食べた住民に深刻な神経障害を引き起こしました。富山県神通川流域では、鉱山から流出したカドミウムに汚染された水で育った米を長年食べ続けた結果、骨がもろくなるイタイイタイ病が発生しました。三重県四日市市では、石油化学コンビナートから排出された硫黄酸化物が原因で、呼吸器疾患が多発しました。
これらの公害病に共通するのは、化学物質の性質と環境中での挙動が理解されないまま大量に使用・排出されたことです。企業は経済効率を優先し、行政は規制の根拠となる科学的データを持たず、結果として多くの人々が犠牲になりました。
環境基準の誕生
公害の深刻化を受けて、1967年に公害対策基本法が制定されました。この法律は、公害を「事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁等によって、人の健康又は生活環境に係る被害が生ずること」と定義し、国と地方公共団体に防止の責務を課しました。その後、1993年に環境基本法が制定され、大気、水質、土壌、騒音について、人の健康を保護し、生活環境を保全する上で維持されることが望ましい基準が定められることになりました。
環境基準は、まず疫学調査、動物実験、化学分析データといった科学的知見を収集することから始まります。次に、どの濃度なら安全か、どのような健康影響があるかをリスク評価し、安全マージンを含めた数値を法令で規定します。そして全国の測定局や事業所で継続的にモニタリングを行い、基準が守られているかを確認します。つまり、環境基準とは化学の知見を社会制度に落とし込んだものなのです。
計量事務所と測定の信頼性
環境を守るには、「正しく測る」ことが不可欠です。どんなに厳しい基準を設けても、測定が不正確であれば意味がありません。日本では計量法に基づき、都道府県の計量検定所(計量事務所)が、環境測定に使われる機器の精度を保証しています。大気中の窒素酸化物濃度を測る計測器、水質のpHを測るメーター、騒音を測る騒音計など、これらはすべて定期的に検定・校正され、測定値の信頼性が担保されています。
もし測定器が狂っていれば、基準を守っているかどうかも判断できません。計量事務所の職員は、基準となる標準物質を用いて測定器を校正し、その精度を証明する検定証を発行します。この地味だが重要な仕事が、環境行政の信頼性を支えているのです。
抜き打ち検査と監視体制
環境規制は「自主申告」だけでは機能しません。地方自治体の環境部局は、工場や事業所に対して立ち入り検査や抜き打ち監視を実施します。職員は排水のサンプルを採取し、実験室で化学分析を行います。煙突から排出される排ガスの成分を測定し、騒音や振動のレベルを記録します。
基準を超過した場合、まず改善指導が行われますが、悪質な場合や繰り返し違反がある場合には、改善命令や操業停止命令が出されることもあります。これは、化学的な測定結果が行政処分の根拠になるという、科学と法律が直結する仕組みです。企業にとって、環境基準の遵守は社会的責任であると同時に、法的義務でもあるのです。
大気汚染(NOx・SOx・PM2.5)
排気ガスはなぜ体に悪いのか
自動車の排気ガスや工場の煙突から出る煙には、窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物(SOx)、微小粒子状物質(PM2.5)といった有害物質が含まれています。これらは単に「汚い」だけでなく、化学的に人体に悪影響を及ぼすメカニズムを持っています。
窒素酸化物は、車のエンジンなどの高温燃焼で空気中の窒素と酸素が反応して生成されます。化学式で表すと、N₂ + O₂ → 2NO(一酸化窒素)となります。この一酸化窒素は大気中でさらに酸化され、2NO + O₂ → 2NO₂(二酸化窒素)という反応を起こします。二酸化窒素は刺激性が強く、気管支を収縮させ、呼吸器疾患の原因となります。
硫黄酸化物は、硫黄を含む石炭や石油を燃焼させたときに発生します。硫黄が酸素と反応してS + O₂ → SO₂(二酸化硫黄)が生成され、これがさらに酸化されてSO₃となり、最終的には大気中の水分と反応してH₂SO₄(硫酸ミスト)になります。これが四日市ぜんそくの主な原因物質でした。
PM2.5は、粒子の大きさが2.5マイクロメートル以下の超微小粒子です。髪の毛の太さの30分の1程度という非常に小さなサイズのため、肺の奥深くにある肺胞まで到達し、場合によっては血管に入り込む可能性があります。長期的な暴露は、呼吸器疾患だけでなく、循環器系の疾患や発がんリスクの増加とも関連していることが疫学研究で明らかになっています。
環境基準と対策の進展
大気汚染防止法により、NOx、SOx、PM2.5について環境基準が設定されています。この基準は、科学的な健康影響評価に基づいて定められており、定期的に見直されています。たとえば、PM2.5の環境基準は、1年平均値が15μg/m³以下、かつ1日平均値が35μg/m³以下と定められています。
これらの基準を守るため、自動車には排出ガス規制が課され、三元触媒などの技術が開発されました。工場には排煙脱硫装置や脱硝装置の設置が義務付けられ、低硫黄燃料への転換が進められました。その結果、1970年代と比べて大気中のSOx濃度は大幅に低下し、四日市のような深刻な大気汚染は過去のものとなりました。
全国約1,300カ所に設置された大気測定局では、24時間365日、大気汚染物質の濃度が測定され続けています。このデータは環境省の「そらまめ君」というウェブサイトでリアルタイムに公開されており、誰でも自分の住んでいる地域の大気の状態を確認できます。
22. VOCとシックハウス
家の中の化学物質
家の中の空気も、化学物質によって汚染されることがあります。揮発性有機化合物(VOC: Volatile Organic Compounds)は、常温で気体になりやすい性質を持つ有機化合物の総称で、トルエン、キシレン、ホルムアルデヒドなどが代表例です。これらは建材の接着剤、塗料、防腐剤、家具、カーテン、カーペットなどから室内空気中に放出されます。
室内で気化したVOCは、換気が不十分だと蓄積し、頭痛、めまい、目や喉の刺激といった症状を引き起こします。これがシックハウス症候群と呼ばれる健康被害で、化学物質過敏症の一種とされています。特にホルムアルデヒドは、刺激性が強く、長期暴露では発がん性も指摘されています。
規制と対策の歴史
1990年代後半、新築住宅でシックハウス症候群の報告が相次ぎ、社会問題となりました。これを受けて、2003年に建築基準法が改正され、ホルムアルデヒドを発散する建材の使用が制限されました。建材は放散量に応じてF☆からF☆☆☆☆(エフフォースター)までランク付けされ、F☆☆☆☆は最も放散量が少ない建材として、使用面積の制限なく使えるようになりました。
また、24時間換気システムの設置が新築住宅に義務付けられ、室内の空気を常に入れ替える仕組みが導入されました。厚生労働省は、ホルムアルデヒドをはじめとする13物質について室内濃度指針値を設定し、健康リスクの目安を示しています。
「化学物質=悪」という単純な図式ではなく、濃度管理と換気が重要だという科学的理解が、建築業界や消費者に広まりつつあります。
23. オゾン層とフロン
成層圏の化学バリア
地上から10~50kmの高さにある成層圏には、オゾン層と呼ばれる領域があります。オゾン(O₃)は酸素原子3個からなる分子で、太陽からの有害な紫外線(UV-B)を吸収する化学的バリアとして機能しています。オゾンが紫外線を吸収すると、O₃ + UV → O₂ + Oという反応が起こり、紫外線のエネルギーが化学反応に使われます。
もしオゾン層がなければ、強力な紫外線が地表に届き、皮膚がんや白内障のリスクが増大し、生態系にも深刻な影響が出ます。実際、植物の光合成が阻害され、海洋プランクトンが減少することで、食物連鎖全体に悪影響が及ぶと予測されています。
フロンによるオゾン破壊のメカニズム
1980年代、南極上空でオゾン層に巨大な穴(オゾンホール)が発見され、世界に衝撃を与えました。原因は、冷蔵庫やエアコンの冷媒、スプレーの噴射剤として使われていたフロン(CFCs)でした。フロンは化学的に非常に安定で、人体への直接的な毒性もないため、「夢の化学物質」として広く使われていました。
しかし、フロンは大気中で分解されずに成層圏まで到達し、そこで強い紫外線によって分解されて塩素原子(Cl)を放出します。この塩素原子がオゾンを破壊する触媒として働き、Cl + O₃ → ClO + O₂という反応を繰り返します。恐ろしいのは、1個の塩素原子が触媒的に10万個以上のオゾン分子を破壊できることです。
モントリオール議定書という成功例
オゾン層破壊の科学的証拠が明らかになると、国際社会は迅速に動きました。1987年、モントリオール議定書が採択され、特定フロンの生産・使用を段階的に禁止することが決まりました。これは科学的証拠に基づく国際環境規制の成功例として、今日でも高く評価されています。
日本ではオゾン層保護法が制定され、代替フロン(HFC)への転換が進められました。代替フロンはオゾン層を破壊しませんが、温室効果が強いという新たな問題があり、現在はさらに環境負荷の少ない冷媒の開発が進められています。オゾンホールは徐々に縮小しており、2060年頃には1980年代のレベルまで回復すると予測されています。
24. 酸性雨の影響
大気汚染が雨を酸性にするメカニズム
大気中の窒素酸化物や硫黄酸化物が雨に溶け込むと、酸性を示す現象が起こります。二酸化硫黄は水と反応してSO₂ + H₂O → H₂SO₃(亜硫酸)となり、さらに酸化されて2H₂SO₃ + O₂ → 2H₂SO₄(硫酸)になります。同様に、二酸化窒素も水と反応してNO₂ + H₂O → HNO₃(硝酸)を生成します。
通常の雨も、大気中の二酸化炭素が溶け込んでpH 5.6程度の弱酸性を示しますが、pH 5.6以下の強い酸性を示す雨を「酸性雨」と呼びます。欧米では1970~80年代に深刻な酸性雨被害が報告され、森林の立ち枯れ、湖沼の酸性化による魚類の死滅、大理石やコンクリートの建造物の溶解といった問題が発生しました。
日本の対策と改善
日本では大気汚染防止法による厳しい排出規制により、1970年代と比べてSOx排出量は約90%減少しました。工場に排煙脱硫装置の設置が義務付けられ、低硫黄燃料への転換が進んだ結果、酸性雨の問題は欧米ほど深刻化しませんでした。
しかし、酸性雨は国境を越えて移動するため、一国だけの対策では不十分です。東アジアでは、東アジア酸性雨モニタリングネットワークが設立され、日本、中国、韓国などが協力して酸性雨の監視と対策を進めています。これは、環境問題が科学的な国際協力を必要とすることを示す好例です。
25. 水質汚濁(BOD・COD)
水の汚れを化学的に測る
川や海の水がどれくらい汚れているかを、どのように測ればよいのでしょうか。環境化学では、BOD(生物化学的酸素要求量)とCOD(化学的酸素要求量)という2つの代表的な指標が使われています。
BODは、微生物が水中の有機物を分解するのに必要な酸素の量を表します。水中に有機物が多いほど、微生物がそれを分解するために多くの酸素を消費します。つまり、BOD値が高いほど水が汚れていることを意味します。河川のように流れがあり、酸素が供給される環境では、微生物による自然浄化が期待できるため、BODが水質指標として使われます。
一方、CODは酸化剤を使って化学的に有機物を分解したときに必要な酸素量を測ります。流れの少ない海や湖では、微生物による分解が進みにくいため、化学的な指標であるCODが適しています。どちらも数値が大きいほど水が汚れていることを示し、単位はmg/L(1リットルあたりのミリグラム)で表されます。
水質基準と測定体制
水質汚濁防止法により、河川や海域ごとにBOD・CODの環境基準が設定されています。河川はその利用目的に応じて類型が分けられており、たとえば最も清浄な河川(AA類型)ではBOD 1 mg/L以下、一般的な河川(A類型)ではBOD 2 mg/L以下といった基準が定められています。海域や湖沼についてもCODの基準があり、2~8 mg/Lの範囲で類型ごとに設定されています。
全国約5,000地点で定期的に水質測定が行われ、環境省がデータを公表しています。工場や事業所から排出される排水については、さらに厳しい排水基準が定められており、基準を超過した場合には改善命令や罰則があります。
多摩川の奇跡―測定・基準・対策のサイクル
1970年代の多摩川は、工場排水や生活排水で汚染され、「死の川」と呼ばれるほどでした。BOD値は場所によっては20 mg/Lを超え、悪臭が漂い、魚はほとんど見られませんでした。しかし、下水道整備と工場排水規制が進められた結果、水質は劇的に改善しました。現在、多摩川のBOD値は2~3 mg/Lまで低下し、アユが遡上するまでに回復しています。
これは、化学的測定によって問題を可視化し、科学的根拠に基づく基準を設定し、社会全体で対策を実施するというサイクルが機能した好例です。環境化学の知見が、行政の施策と市民の協力を結びつけ、具体的な成果を生み出したのです。
26. プラスチック問題(マイクロプラスチック)
プラスチックの化学的性質
プラスチックは高分子化合物と呼ばれる、分子量が非常に大きな物質です。ポリエチレン(PE)、ポリプロピレン(PP)、ポリエチレンテレフタラート(PET)など、用途に応じてさまざまな種類があります。これらに共通するのは、化学的に非常に安定で、自然界では分解されにくいという性質です。
この安定性こそが、プラスチックを便利な素材にしている一方で、環境問題の原因にもなっています。自然界には、プラスチックの高分子構造を効率的に分解できる微生物がほとんど存在しないため、一度環境中に出たプラスチックは数百年以上にわたって残り続けます。
マイクロプラスチックの生成と影響
海洋に流出したプラスチックは、紫外線による光酸化や波や砂による物理的な摩擦で、徐々に細かく砕けていきます。5mm以下に細分化されたものをマイクロプラスチックと呼びます。さらに小さなナノプラスチック(1マイクロメートル以下)の存在も確認されています。
マイクロプラスチックの問題は、そのサイズの小ささにあります。海鳥や魚、ウミガメなどが餌と誤認して摂取し、消化できずに体内に蓄積します。実際、海鳥の胃から大量のプラスチック片が見つかる事例が世界中で報告されています。さらに、プラスチックの表面には疎水性の有害化学物質(PCB、農薬など)が吸着しやすく、食物連鎖を通じて生物濃縮される可能性が懸念されています。
最近の研究では、魚介類の体内からマイクロプラスチックが検出されており、それを食べる人間への影響も研究が進められています。ただし、人体への具体的な健康影響については、まだ十分なデータが揃っておらず、予防的な観点からリスク評価が進められている段階です。
プラスチック資源循環促進法
2022年、プラスチック資源循環促進法が施行され、使い捨てプラスチック製品の削減が法的に推進されることになりました。レジ袋の有料化、ストローやスプーンの提供方法見直し、製品設計段階からリサイクルを考慮することなどが求められています。
これは、プラスチックの化学的性質と環境中での挙動という科学的知見が、社会の仕組みを変えつつある例です。消費者の意識変化と企業の技術開発、行政の規制が組み合わさることで、持続可能な社会への転換が進められています。
27. 循環型社会とリサイクルの科学
リサイクルは化学変換プロセス
リサイクルは単なる「再利用」ではなく、化学的変換プロセスです。使用済みの製品を原料レベルまで分解し、新たな製品に生まれ変わらせるには、化学の知識が不可欠です。
3R(スリーアール)という概念があります。まずReduce(発生抑制)は、そもそも廃棄物の発生量を減らすこと。次にReuse(再利用)は、製品をそのままの形で繰り返し使うこと。そしてRecycle(再生利用)は、製品を原料に戻して新しい製品を作ることです。この順番は、環境負荷が小さい順に並んでいます。
ペットボトルのリサイクルを例に取ると、回収されたペットボトルは細かく砕かれ、熱分解されてポリエステル繊維に再生されます。アルミ缶は溶解して再成形されますが、新品のアルミニウムを製造するのに必要なエネルギーの3%程度で済むため、資源とエネルギーの両面で大きなメリットがあります。
リサイクルの技術的課題
しかし、リサイクルには技術的な課題も多くあります。異なる素材が混合された製品は分離が困難です。プラスチックには様々な添加剤が含まれており、リサイクルを繰り返すと品質が劣化します。また、回収・輸送・処理にかかるコストが、新品を作るコストを上回る場合もあります。
最近注目されているのが、ケミカルリサイクルです。これはプラスチックを熱分解して化学原料に戻す技術で、品質劣化の問題を解決できる可能性があります。また、設計段階からリサイクルを考慮する「サーキュラーデザイン」の考え方も広まっており、化学者、エンジニア、デザイナーが協力して、リサイクルしやすい製品を開発する動きが加速しています。
サーマルリサイクルの位置づけ
日本では「燃やしてエネルギー回収」することも広義のリサイクルに含まれ、サーマルリサイクルと呼ばれています。しかし、国際的には「リサイクル」とはみなされないことが多く、マテリアルリサイクル(素材として再利用)の比率を高めることが求められています。化学的に見れば、燃焼は有機物を完全に分解してCO₂とH₂Oにする反応であり、物質の循環という観点からは「最終手段」と位置づけられるべきでしょう。
28. 「天然=安全」の誤解
科学的視点の重要性
環境や健康について考えるとき、「天然由来だから安全」「人工(化学合成)だから危険」という思い込みがしばしば見られます。しかし、これは科学的には正しくありません。物質の毒性は、その化学構造と摂取量によって決まるのであり、天然か人工かは本質的な問題ではないのです。
フグ毒として知られるテトロドトキシンは、天然物ですが猛毒です。カビが生産するアフラトキシンは強力な発がん性物質です。トリカブトに含まれるアコニチンは、わずか数ミリグラムで致死的です。これらはすべて天然物ですが、人工の化学物質よりもはるかに危険です。
一方、ビタミンCは化学合成されたものでも天然由来のものでも、分子構造は全く同じです。医薬品の多くは化学合成によって作られますが、その安全性と有効性は厳密に管理されています。重要なのは、その物質がどのような化学的性質を持ち、どのような量で体内に入るかということです。
パラケルススの原則
16世紀の医師パラケルススは「すべての物質は毒である。毒でないものはない。適切な量が、毒と薬を分ける」という言葉を残しました。これは現代の毒性学の基本原則となっています。
水ですら、短時間に大量に飲めば水中毒を起こします。逆に、適切な量であれば、多くの「毒」が薬として機能します。たとえば、ボツリヌス菌が作るボツリヌストキシンは最強の毒素の一つですが、ごく微量を医療用に使えば筋肉の痙攣を治療できます。
データに基づく判断を
環境化学を学ぶことは、イメージや印象ではなく、科学的データに基づいて判断する力を身につけることでもあります。「無添加」「オーガニック」「ケミカルフリー」といった言葉に惑わされず、その物質の化学的性質、濃度、暴露経路、リスク評価データを見る習慣を持つことが大切です。
環境化学の統合モデル
環境化学は、物質の性質を理解し、測定し、管理するという、科学と社会が協働するシステムです。その構造は次のように整理できます。
まず物質の構造と性質を理解します。化学反応性、安定性、溶解性、移動性といった基本的な性質が、環境中での挙動を決定します。次に、環境中での挙動を追跡します。物質は放出され、拡散し、蓄積し、分解され、循環します。この過程を化学的に理解することが重要です。
そして測定と評価が行われます。化学分析によって環境中の物質濃度を定量し、リスク評価を経て、科学的根拠に基づく基準値が設定されます。最後に社会的制御が実施されます。法規制による排出管理、監視・検査による遵守確認、技術開発による環境負荷低減、情報公開による透明性確保が行われ、環境の改善につながります。
このサイクルが適切に機能することで、公害という痛ましい経験から学んだ教訓が、持続可能な社会の構築に生かされていくのです。
これからの動向
新たな化学物質の課題
環境化学が取り組むべき新たな課題も次々と現れています。PFAS(有機フッ素化合物)は「永遠の化学物質」とも呼ばれ、環境中でほとんど分解されません。フライパンのコーティングや消火剤に使われてきましたが、環境や人体への蓄積が懸念され、規制が強化されつつあります。
ナノマテリアルは、ナノメートルサイズの超微小粒子で、独特の化学的・物理的性質を持ちます。医療や電子機器など多くの分野で応用が期待されていますが、環境中での挙動や生体への影響についてはまだ十分に解明されていません。
気候変動との関連も重要です。温室効果ガスの削減と大気汚染対策は、化学的には密接に関連しています。たとえば、化石燃料の燃焼を減らせば、CO₂だけでなくNOxやSOxの排出も減ります。環境化学は、気候変動問題にも重要な貢献をしています。
技術革新と国際協力
化学分析技術は日々進歩しており、より高感度で迅速な測定が可能になっています。AIやビッグデータを活用した環境監視システムも開発され、広域の環境状態をリアルタイムで把握できるようになりつつあります。
グリーンケミストリーという考え方も広まっています。これは、化学物質の設計段階から環境への影響を最小化する取り組みで、有害物質を使わない合成法、再生可能資源の利用、エネルギー効率の向上などを目指しています。
環境問題の多くは国境を越えて広がるため、国際協力が不可欠です。酸性雨、海洋プラスチック、オゾン層破壊など、一国だけでは解決できない問題に対して、科学的知見を共有し、共通の基準を設け、協力して対策を進める枠組みが構築されています。国際化学物質管理戦略(SAICM)や持続可能な開発目標(SDGs)は、その代表例です。
環境化学の知見は、これからも社会と協働しながら、持続可能な未来を築くための基盤であり続けます。化学の目で世界を見ること、測定によって問題を可視化すること、科学的根拠に基づいて判断すること。これらの力が、私たちの未来を守るのです。
次は、実際に「日本の川や海がどのくらい綺麗になったのか、最新の統計データ」を一緒に見てみますか?それとも別のトピックに進みますか?
この章のねらい
空気が汚れる、水が濁る、便利な素材が後から問題になる。こうした現象はしばしば「人間のモラルの問題」として語られがちですが、実際には物質が環境中でどのように振る舞うかを十分に理解しないまま使ってきた結果です。
環境問題は感情論ではなく、化学反応・物質循環・システム制御の問題です。
社会人に求められるのは、「環境にやさしいかどうか」という印象論ではなく、
- なぜ汚染が起こるのか
- なぜ規制値がその数字なのか
- どんな技術で、どこまで戻せるのか
- 企業はどこに責任を持つべきか
を科学的に説明できる理解です。本章はそのための基礎を与えます。
Ⅰ.大気と空気の化学
21. 大気汚染(NOx・SOx・PM2.5)
現代の大気汚染の本質は「燃焼」です。
エネルギーを得るために高温で物を燃やすと、空気中の窒素や燃料中の硫黄が化学反応を起こし、本来なかった酸化物が生まれます。
NOxやSOxはそれ自体が有害なだけでなく、大気中で変化し、酸性雨や光化学スモッグ、二次粒子(PM2.5)へと姿を変える点に本質的な難しさがあります。
PM2.5は特定の物質ではなく、「有害物質を吸着した超微小な運び屋」であり、肺の奥深くまで侵入して炎症を引き起こします。
重要なのは、環境基準と排出基準は別物だという点です。
環境基準は「この濃度以下なら健康影響が出にくい」という社会目標であり、排出基準は「事業者が必ず守るべき法的義務」です。
企業の環境対応は、この二つを混同しないところから始まります。
22. VOCとシックハウス
環境問題は屋外だけの話ではありません。
現代人は一日の大半を屋内で過ごし、その空気の質は建材・家具・接着剤などから放散されるVOCに大きく左右されます。
シックハウス症候群は、「微量だから大丈夫」という直感が通用しない代表例です。
化学物質は換気が不十分な空間では確実に蓄積し、人体に影響を与えます。
建築基準法が材料規制と24時間換気を義務づけたのは、化学的に合理的な判断です。
ここで重要なのは、「天然素材だから安全」「新築だから危険」といった単純な二分法が成り立たないことです。
問題は物質の種類・放散量・換気条件という組み合わせにあります。
Ⅱ.地球規模での化学反応
23. オゾン層とフロン
オゾン層破壊は、環境問題の中でもっとも「化学反応が明確に解明された事例」です。
フロンは地表では安定ですが、成層圏で紫外線を浴びると分解し、塩素原子が触媒としてオゾンを連鎖的に破壊します。
この問題の教訓は二つあります。
一つは、安定な物質ほど、別の環境では危険になりうるということ。
もう一つは、科学的理解と国際協調がそろえば、地球規模の環境問題も回復可能であるという事実です。
24. 酸性雨
酸性雨は「見えない大気汚染」が、時間差で森林・湖・建造物に影響を及ぼす現象です。
NOxやSOxは排出地点では問題が見えにくく、数百キロ離れた場所で被害を生みます。
ここで理解すべきなのは、自然界にはもともと緩衝能力(自己回復力)があるが、それには限界があるという点です。
排出量がその限界を超えたとき、土壌は養分を失い、湖は魚を失い、建造物は静かに壊れていきます。
Ⅲ.水と物質循環の化学
25. 水質汚濁(BOD・COD)
水の汚れは「見た目」ではなく、「酸素の奪い合い」として評価されます。
BODやCODは、有機物が水中の酸素をどれだけ消費するかを数値化した指標です。
ここで重要なのは、水は空気以上に自己回復に時間がかかるシステムだという点です。
一度富栄養化が進むと、負の連鎖が起き、魚が生きられない水域が生まれます。
下水処理や排水規制は、単なるコストではなく、水循環を守るための社会インフラです。
26. プラスチックとマイクロプラスチック
プラスチック問題の本質は、「分解されない」ことではありません。
分解されず、細かくなり、回収不能な形で拡散する点にあります。
マイクロプラスチックは、生物に物理的・化学的影響を与え、食物連鎖を通じて人間にも戻ってきます。
生分解性プラスチックも万能ではなく、使いどころを誤れば新たな問題を生みます。
したがって解決策は、「素材」だけでなく、流出させない設計・回収できる仕組みにあります。
Ⅳ.循環と判断の科学
27. 循環型社会とリサイクル
リサイクルは善、廃棄は悪、という単純な話ではありません。
重要なのは、ライフサイクル全体で環境負荷が下がるかどうかです。
発生抑制が最優先であり、リサイクルは最後の選択肢です。
企業には、設計段階から循環を前提にした思考と、EPR(拡大生産者責任)が求められます。
28. 「天然=安全」の誤解
環境や健康の議論で最も危険なのは、イメージによる判断です。
天然物にも猛毒は存在し、合成物質にも安全で不可欠なものがあります。
科学的判断の基準は一貫しています。
リスク=有害性 × 暴露量。
この視点を持てるかどうかが、科学リテラシーの核心です。
環境化学の統合モデル(まとめ)
環境問題は、
- 物質の性質
- 環境中での移動と変換
- 人間社会の使い方
環境化学の統合モデル
【構造】
物質の性質・反応性
【流れ】
放出 → 拡散 → 蓄積 → 分解
【制御】
規制・技術・設計・回収

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