日本は中学生の学力テストでは世界上位に位置する一方、大人の科学への関心や信頼は国際的に見ると高いとは言えません。では、これは日本特有の現象なのでしょうか。科学への関心や信頼が高い国・低い国を国際調査データから整理します。
はじめに
日本の中学生は学力テストで世界上位に位置します。PISA 2022では科学的リテラシーで世界2位、TIMSS 2023でも中2理科が3位・数学が4位という結果を残しています。しかし、日本の生徒たちは「科学が将来役に立つ」と感じる割合が低く、科学的職業に就きたいという意欲も国際的に見て低いという矛盾を抱えています。
さらに興味深いのは、この傾向が大人になるとより顕著になることです。Pew Research Centerなど国際調査によれば、日本の大人は「科学に関する政府投資は価値がある」と答える割合は高いものの、「科学の世界的リーダーであることが非常に重要」とする割合は複数国平均より低く34%に留まっています。つまり、定量的な学力は世界最高水準にありながら、科学の重要性や社会参加という面では他国と比べて意欲が弱い傾向が見られるのです。
では、逆にPISAで低位に位置する国々の状況はどうなのでしょうか。本記事では、教育が機能するための社会的前提条件という視点から、世界の教育格差を読み解いていきます。
PISAで学力が低い国に共通する特徴(能力の問題ではない)
PISAで低位に位置する国、特に中東・アフリカ・中南米の一部の国々には、教育以前の共通条件があります。これは「国民が怠慢」「文化が遅れている」という話では全くありません。むしろ、教育が合理的な投資になる社会条件が、まだ整っていないという構造的な問題なのです。
国家として「教育を長期投資できない」
多くの低位国では、政権交代や内戦、治安不安が頻発します。今日の制度が10年後も続く保証がどこにもありません。加えて、インフレや通貨危機によって、長期的な計画を立てることそのものが困難です。そうした状況下では、親が子どもを学校に通わせ続けることの合理性は極めて低くなります。これは親の判断として極めて合理的なのです。
こうした状況下では、子どもに教育を受けさせることは「リスクの高い投資」になります。
学校で学ぶ内容が「生活で報われない」
多くの低位国では、経済活動の大部分が非公式経済で営まれています。縁故や口約束、現金取引が主流で、文字や数理を使わずに生活が成立する社会構造があります。
実際、こうした国々では、契約書よりも口約束が信頼され、履歴書より血縁・地縁が就職に直結し、銀行口座より現金が安全とされます。こうした環境では、学校知が日常生活と切り離されているため、読み書きや理科を学んでも社会的リターンがありません。教育への動機づけが弱くなるのは当然の帰結です。
科学への関心が高い国と低い国の違いを見ても、その背景には「科学が社会でどう使われているか」という実践的接続の有無があります。教育が「使えるスキル」として認識されるかどうかが、学習意欲を大きく左右するのです。
教員の地位・質が低く、制度が不統一
教員が低賃金で副業前提(農業や商売と兼業)という国は少なくありません。教科書やカリキュラムが地域や宗派で分断され、教員養成が体系化されていないケースもあります。ある国では、小学校教員の半数が中学校を卒業していないという調査結果すらあります。
これは教員個人の問題ではなく、教員という職業が社会的に確立されていないという構造的課題です。こうした状況では、全国で最低限の学力を保証することができません。
なぜ江戸・明治日本では「できた」のか
逆説的ですが、日本が教育で成功したのは「教育制度が優れていたから」ではなく、教育が機能する社会条件が、たまたま先に整っていたからです。
治安と統治の異常な安定
江戸時代は260年間ほぼ内戦がありませんでした。これは世界史的に見て極めて異例です。ヨーロッパでは19世紀まで戦争や革命が続き、アフリカや中東では植民地化と独立戦争が続いていました。
明治維新後も、短期間で中央集権国家を完成させ、政治的安定を実現しました。こうした安定があったからこそ、「将来を見越して子どもを育てる」という長期投資が合理的選択になる社会が成立したのです。
読み書き算盤が”生存スキル”だった
江戸時代の寺子屋は、現代の学校のような「教養機関」ではありませんでした。むしろ生活技術訓練所でした。年貢台帳は農民も読み書きできないと損をする仕組みでしたし、算盤ができないと商売になりませんでした。土地売買・金貸しの契約書など、日常生活のあらゆる場面で文字が必要だったのです。
つまり、学校知と日常生活が完全に接続していました。「勉強しても意味がない」という選択肢が存在しなかったのです。現代のPISA低位国の多くは、逆に学校知と日常が分離している状態にあります。これは日本の現代教育が抱える「科学が生活で報われない」という構造と同じ問題です。
この「知識と日常の分断」という問題は、現代社会を生き抜くための「思考のOS」でも中心的なテーマとして扱っています。
学べば身分・職が上がる実例が可視化
江戸時代には、下級武士が学問を修めることで藩の重職に就く例がありました。明治時代には、学歴が官僚・軍・企業への入口として明確に機能しました。教育の社会的リターンが、誰の目にも明らかだったのです。
例えば福澤諭吉は下級武士の子でしたが、蘭学を学ぶことで明治政府の顧問的地位を得ました。こうした「成功事例」が可視化されることで、庶民も教育に投資するようになりました。対照的に、PISA低位国では「大学を出ても職がない」「学歴より縁故」という現実があり、教育投資の期待リターンが低くなります。
この明治期の教育制度の確立は、日本インフラ史総覧や日本の産業を創った企業の系譜で扱った産業化・近代化と密接に結びついています。教育制度は、国家基盤の一部として設計されたのです。
世界から見た日本教育の評価(PISA・OECD視点)
強み(世界的に高評価)
日本の義務教育段階の基礎学力は世界最高水準です。先述のようにPISA 2022で科学的リテラシー世界2位、TIMSS 2023で中2理科3位・数学4位という結果がそれを証明しています。
日本の教科書は国際的に見ると「薄い」のですが、学習指導要領による全国統一基準、概念の積み上げ型設計(前学年の内容を前提とする)、教師用指導書の充実により、限られた時間で効率的に基礎学力を保証する設計になっています。
さらに、都市部も地方も同じカリキュラムを使い、教員が定期的に異動することで地域格差が縮小され、義務教育の実質的な完全普及が実現されています。これは「15歳時点で社会を支える知的基盤を作る教育」として、世界的に高く評価されています。
弱み(国際的に共有された認識)
一方で、日本教育の限界も明確に指摘されています。大人の科学的関心や探究意欲が国際的に低く、リカレント教育(学び直し)の社会的基盤が弱いという問題があります。中学生は優秀なのに、大人になると科学への関心が低下するという特異な傾向が見られるのです。
さらに、科学や学習への内発的動機が低いという課題もあります。「理科は社会に出たら必要ない」と答える高校生が45.9%と国際平均より高く、科学的職業に就きたい割合も低いのです。学習が「受験のため」に偏りやすい傾向があります。
江戸時代は「学校知=生活技術」だったのが、現代日本では逆転しています。数学を学んでも「いつ使うのか」が見えず、理科を学んでも「仕事でどう使うのか」が見えません。これは学びと現実の分断という問題であり、日本教育は短距離走(15歳まで)には強いが、マラソン(生涯学習)設計ではないと評価されています。
それでも日本の教育を「導入したい」とされる理由
世界が欲しいのは「日本そのもの」ではない
JICA・世界銀行・OECDが選択的に導入しているのは、受験競争でも詰め込み教育でも長時間学習でもありません。むしろ、教員研修中心の改革、授業設計の技術、概念の積み上げ型カリキュラム、資源が乏しくても成立する理数教育といった要素です。
教員研修中心の改革は、日本型Lesson Studyとして知られています。教員が互いの授業を観察し合い、「授業研究」という文化の中で、外部専門家ではなく教員同士が成長する仕組みです。これはケニアのSMASEプロジェクトなどで国家制度として定着し、東アフリカ全域に拡大しています。
授業設計の技術も注目されています。板書の構造化(左から右への展開、色分け)、発問の技術(「なぜ?」「どうなる?」の使い分け)、実験の組み立て(予想→実験→考察)といった具体的な技術が、アフリカ・中南米・東南アジアで教員研修として導入されています。
概念の積み上げ型カリキュラムは、前学年の内容を前提とする設計で、教科書の配列が学習順序と一致し、「飛び級」より「全員が理解」を重視します。そして何より、高価な実験機材がなくても、ペットボトルや輪ゴムなど身近な材料で実験可能で、教科書と黒板だけでも授業が成立する設計が、途上国にとって大きな魅力となっています。「高価な設備がなくても、教員の工夫で質の高い教育ができる」という点こそが、日本モデルの真骨頂なのです。
なぜ「江戸モデル」はそのまま再現できないのか
江戸日本が教育に成功した条件は、現代の途上国では再現不可能です。江戸日本は、言語や文化がほぼ統一された同質社会であり、顔の見える小規模共同体で、生涯同じ地域に居住する低移動性があり、儒教や仏教による道徳が共有された強い規範社会でした。これらは教育にとって理想的すぎる条件だったのです。
現代のPISA低位国の現実は大きく異なります。国内に10以上の言語を持つ多民族・多言語社会であり、都市と農村を行き来する高移動性があり、国家統合が未完成で国民意識が欠如し、宗教や部族対立を抱えています。同じ教育制度を移植しても、社会的前提が違うため成立しないのです。
そして日本(江戸・明治)は、教育が機能する”奇跡的な前提条件”を先に手に入れていた社会でした。
だから世界は今、日本の結果(PISA順位)をまねるのではなく、日本がどうやって基礎学力を社会制度として作ったかというプロセスを学ぼうとしているのです。
日本が直面する新たな課題
教育の前提条件が崩れつつある
現代日本では、雇用不安や将来不安といった社会の不安定化が進んでいます。学校知と日常の分断により「なぜ学ぶか」が見えにくくなり、教員の地位低下によって志望者が減少し、多忙化が進んでいます。江戸・明治で成立していた条件が、現代日本で揺らいでいるのです。
雇用の不安定化と教育投資の関係、学歴インフレと教育の実質的価値、地域格差の拡大と教育機会の不均等といった課題を検討する必要があるでしょう。
この問題は、2040年日本予測からAI共生と人口減少下での新たな生き方の模索で分析した社会構造の変化と密接に関係しています。人口減少と技術変革が同時進行する中で、教育の前提条件そのものが変容しつつあるのです。
科学への内発的動機の低下
先述のように、中学生の学力は高いものの、大人の科学への関心は国際的に低いという断絶が生じています。これは「15歳まで」の教育設計の限界を示しています。生徒たちは科学学習を受動的(授業中心)に行い、主体的な探究や体験型学習が少ないという分析結果もあります。複数の調査で、日本の生徒は科学や理科が「将来役に立つ」と感じる割合が低く、科学的職業に就きたい割合も低いという傾向が指摘されています。
この問題の一つの解決策として、大人の社会科・理科ツーリズムのような、科学と社会の接点を体験的に学ぶ機会の創出が重要になります。知識を「使える実感」に変えることが、学習意欲の維持につながるのです。
AI時代の「基礎学力」とは何か
かつて「読み書き算盤」が生存スキルだったように、AI時代には何が生存スキルになるのかが問われています。単純暗記は不要になり、論理的思考や批判的思考がより重要になり、学び方を学ぶ「メタ学習」が必要になるでしょう。
ChatGPT時代に暗記は不要なのか、基礎学力とは「何を指すのか」の再定義、AIと共存する教育設計といったテーマが浮上します。
まとめ
教育格差を考えるとき、「あの国は努力が足りない」「日本の教育は優れている」という単純な比較ではなく、教育が機能する社会的前提条件があるか、学校知と日常生活が接続しているか、教育の社会的リターンが見えるか、という構造的視点が不可欠です。
そして、この視点は日本自身にも向けられています。かつて日本が持っていた「教育成立条件」を、これからも維持・再構築できるのか。それが、現代日本の教育政策に問われているのです。

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