「平均的な社会人」とは、高校受験時に偏差値50程度だった人、つまり同学年のほぼ中央に位置する学力層とおそらくそんなに変わらない。テレビのニュースもこのくらいの理解力に設定していると思われる。
私自身、比較的幅広い職種や領域で仕事をしてきたが、それは博士号を持っているからというよりも、
中学までに学んだ内容が「使える形」で身についていたことが大きいと感じている。
文章を正確に読む力、数量関係を把握する力、因果関係を整理する力といったものは、ほとんどが義務教育段階で養われる。
資格試験が求めているのは「中学レベルの定着」
日本の多くの資格試験を見ても、求められているのは高度な専門知識以前に、次のような基礎的な力である。
- 日本語の文章を正確に読めること
- 中学〜高校初級レベルの理数的理解
- 素直な公式やルールを適用できること
言い換えれば、中学までの学修がきちんと定着していれば、多くの資格試験は十分に射程圏内に入るのである。
分数ができない大学生がそのまま大人になっている現実は、現在も継続している問題である。
義務教育は戦略的に設計されている
義務教育で何を学ばせるかは、かなり戦略的に設計されていると見てよい。
ただし問題は、「なぜそれをこの時期に学ぶのか」「それが将来どのように生きるのか」というメッセージが、
教育の現場や社会から十分に伝えられていない点にある。
出身高校を確認する就職試験
就職試験で「地頭」を見るために出身高校を気にする会社があるというが、実は本質を突いている。
高校の名前というより、中学までの学修がどこまで定着しているかが、その後の思考力、判断力、
ひいては日常生活の質や職業上の適応力に強く影響しているからである。
また、日常の会話や議論が成立するかどうかも、価値観以前に、ある程度近い認知的基盤
――語彙、論理の粒度、前提知識――を共有しているかに左右される。
会話は、ある程度似た知能水準でないと成り立たない」という感覚も、決して極端な主張ではない。
「分数ができない大学生」――1999年に出版された『分数ができない大学生』(岡部恒治ら編著、東洋経済新報社)は、
大学生の10人のうち2人は小学生の算数ができないという実態を明らかにした。
理科を「捨てる」ことの代償
都市部の私立高校入試では理科・社会が課されないケースも多く、早い段階で理科を「捨ててしまう」子どもが少なくない。
これは個人の選択というより、制度設計の帰結であり、長期的には社会全体の科学リテラシー低下につながりかねない。
だからこそ今、改めて問いたい。
義務教育で学ぶ理科は、受験のためでも、専門家になるためでもなく、社会で生きるための基礎であるということを。
個人としては、より高度で専門的な内容を語りたくなる気持ちもある。
しかしあえて「中学程度の理科を理解できる人を増やすことこそが、社会を変える」という立場を大切にしたい。
科学的に考える素地を持つと日常の意思決定の質を確実に底上げする。
その価値を言語化し、伝え直すことが、教育と社会をつなぐ重要なミッションだと考えている。
※AI支援によって記事を作成しています。


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